日々を織る|はじめに

介護のこと、地域医療や施設のこと、高齢になっていく親と生きるということ、そして、ひたひたと近づいてくる自分の老いについて…。自分と友人の大半が、40代、50代、60代になってから、そういう話題が多くなってきました。食事を、お茶を、お酒を楽しみながら、最近観た映画のこと、新しく買ったシャツのこと、旬の野菜をつかったおすすめレシピなど、たわいのない話の端に、すっと顔を出すのです。

とりとめのない話の中に、すっと顔を出してはさっと消え、また顔を出す。それはきっと、片時も離れることのない考え、自分ではどうしようもない現実と気もち。

そんな話の中で友だちとしみじみと頷き合ったことがあります。もしも扉を閉めて自分一人で、この、親の介護を向き合うことになったらどうなるんだろうと。いろいろなことが以前のようにはできなくなっていく親の姿が、今、40代、50代、60代の自分のそう遠くない将来の姿と重なって見えて、心をよぎる。体や脳の健康についての不安や問題を、どう自分自身で抱えていけばいいのだろうと。避けることも、逃げることも、退けることもできない現実が突きつけてくるだろう様々な問題を思うと怖い。

そしてさらに「どうすればいいんだ、どうにかしなければ、どうすればいいんだ、どうにかしなければ、どうしようもない、でも、どうにかしなければ、どうにかしなければ、どうにかしなければ、どうすればいいんだ、」という袋小路の堂々巡りで、疲れ、弱り、擦り切れていく自分の姿を想像するのもとても怖い。

そんな気もちでいっぱいになりかけた時、ふと思い出した言葉がありました。「一人にしない、一人にならない」。これは、ある福祉施設の職員さんたちが掛け声のように口にしている言葉です。利用者さんを一人にしない。同じく職員も一人にしない。そして職員自身がひとりにならない。それまで第3者として聞いていた言葉が突然、自分ごととして心に浮かんできました。「一人にしない、一人にならない」。シンプルなこの言葉に込められた意味をあらためて考えました。

ほどよい距離で見守り続け、必要とされる時、けして過ぎることなく十分な助けになる。そんな風に人の力になることは至難の業。一人にしないことと、一人でいる機会を奪うことは、まったく別の話。人を助けるって、なんて難しいんだろうかと、少し前、とある仕事を通じて感じたばかりです。

そして、一人にならない。これは一人にしないことよりも、もっと難しいと思うのです。助けを求めるには、助けてくださいと声をあげるには、強さが必要だと思うのです。誰かの力を借りるにはまず、自分を、自分で自分を打ちのめすほどまじまじと自分の現実を見つめること。そしてそれを認めて受け容れて、自分の弱さ、足りなさを、いわばさらけ出して助けてくださいと声を上げる。それにはやはり強さが必要だと。そしてその強さには、助けてくださいと声をあげても大丈夫だと信じられる「人」と「環境」が不可欠なのだと思います。

「一人にしない、一人にならない」。シンプルなこの言葉の大きさ、大切さを自分ごととして感じた時、このシンプルな言葉を実現しようとしている人たち、環境と人との不具合を調整する役割を果たすため、人と人を、人と地域を、地域と地域を繋げようと、日々、福祉の現場で奔走している人たちのことをあらためて思いました。そして彼ら彼女たちに話を聞きたいと思いました。

厳しい状況に置かれた人を支援する福祉施設で日々、「一人にしない、一人にならない」ことの大切さを痛感し、道程の険しさ、遠さに直面しても、焦らず怯まず力を尽くす人たちの思いや姿に触れることが、高齢になっていく親と生きていくということ、親の姿をなぞるように高齢になっていく自分を受け容れていくということの助けになるのではないかと。

こんな私の思いを受け容れ、インタビューに応じてくださった福祉の現場に生きる人たちの思いや姿を書いたルポルタージュです。

このルポルタージュは、2017年 10月から2019年2月まで毎週木曜日、「ぱんせどフランセ」というブログに掲載していた原稿を加筆修正したものです。