日々を織る|「障害」か「障がい」か。

福祉の現場で支援の仕事に就く人たちへのインタビューをもとにした、このルポルタージュ『日々を織る』には「しょうがい」という言葉が出てきます。たびたび登場します。
この「しょうがい」という言葉を「障害」と記すか「障がい」と記すか。原稿を書きながら、いつも考え、迷います。

もともと、私自身は「障害」と記す方でした。「障がい」とあえて「害」の字を“ひらがな”にすることは、文字が含んだ「害」という概念にことさらに気を取られ、縛られているような気がして、それはそれで戸惑いがあったからです。

そして人を傷つける言葉というのは何だろうかと考えました。
日本語では身体的な「しょうがい」を言い表わす言葉に、とても気をつかいます。いわゆる放送コードにひっかかる言葉が数々あります。その言葉を呼んだり効いたりして傷つく人や、嫌な気もちになる人がいるのなら、たしかに、その言葉は使うべきではありません。

ただ、その時、問題の本質は、その言葉そのものにではなく、その言葉に与えられた概念、その概念を与えてしまった人の思考にこそある。そう考えます。そして、言葉のカタチ、字面や音を整えて、配慮や思いやり、心づかいを果たしたような気になって、本質に向き合うことを忘れる。


言葉に問題を押しつけて、問題の本質から目を背ける。そういうことをしてはいけない、しない自分であろうという思いが、「障害」と記す理由の1つでした。素はいいながら、やはり、それでいいのだと言い切るだけの自信はなく、それでいいのだろうかという迷いは消えませんでした。

クライアントのある仕事では、当然のこととしてクライアントの考え方に従いました。クライアントの考えや想いを伝えるための文であり、言葉ですから。すると「障がい」とひらがなの方が多くて、やはり「害」という文字を使わない方が、より多くの人の心に添うのだろうか、嫌な想いをする人が少ないのだろうかと思うようになり、いつしか「障がい」と記すようになっていきました。だけどやっぱり、迷いは残ったまま。

そんななか、福祉の現場で活動している施設や団体で「障害」と記しているということを知りました。すべての施設や団体がそうであるのかどうかは定かではありませんが、私が出会った福祉施設や団体はそうでした。どうして「障害」という表記を用いているのか、その理由はこうでした。

障害というのは、人とその人の環境との間にあるもの。だから「障害」とそのまま記す。そして「障害」は人と環境の間にあるものであって、人に属しているのではない。「障害」はある、のであって、「障害」を持つ、のではない。「障害者」は「障害がある人」であって、「障害を持つ人」ではない。

こう理由を教えられた時、曲がりくねった細い夜道の先に、月明かりの落ちる野原を見つけたような心持ちになりました。なるほど、そうかと。それ以来、私は再び、個人的は文章では「障がい」ではなく「障害」と記すようになりました。

なったのですが、それから少し経ってから、あるセミナーの講師の1人として登場した障害のあるお子さんのいるタレントの方が、「障害」という文字を見るとドキッとして少し胸が痛むと仰いました。「害」という文字のイメージがあまりに強くて、自分の子どもに用いられる言葉にその文字の入っていることに、よい気もちがしないと。

ここで、また、迷いました。そうか、やはり現実に傷つく人がいるのだと。それならば、概念だとかいう理屈の前に、傷つく人のことを考えるべきじゃないのかと「障がい」と記すようになりました。この『日々を織る』の1人目の物語『繋がるために』でも、「障がい」と記しています。


そして2人目の物語を書き始めた時、Twitterで、障害のある当事者のどなたかの「障がい」ではなく「障害」と記してほしい。「障害」と表記を統一してもらった方がオンラインの検索が容易いのだというような呟きを目にしました。気になって、ちょっとオンラインでいくつかの意見を当たってみたところ、当事者「障害」「障害者」と記すことが多いというような情報に触れました。

それが、すべての意見ではないと思います。それが正解という意見もないのが本当のところだと思います。でも、今の私が出会った意見はそういうことでした。そして、より適当なあり方は、当事者の心に添うことだと思いました。だから、この『日々を織る』でのこれからの原稿では、「障害」「障害者」と記していこうと思います。

「障害」は、人がもつものではなく、「障害」は、人と環境の間にあるものだ。そして、その「障害」。人と環境不具合を調整していくのが福祉の仕事であって、社会福祉のあり方だという今の自分が得た考えを言葉に託して、「障害」という表記を選びます。

高齢化していく親と生きていくなかで、自分自身も年を重ねていく中で、それまで感じなかった「障害」に、生活をする上での環境との不具合に、どんな風に向き合っていくのだろうか。その水先案内人として、「誰も1人にしない、1人にならない」環境をつくろうと、日々、課題にぶつかり力を尽くしている、福祉の現場に生きる人たちに話を聞こうと書き始めたこのルポルタージュには、それが合っているように思うから。

この後のPerson2の原稿から、「障害」と記します。この前のPerson1の原稿は、「障がい」のままにします。その右往左往、紆余曲折そのものも、自分の考えがどんな風に変わっていくのかの記録であり、自分の気もちの記憶でもあると思うので。

筆者 井上昌子(フランセ)